… navy blue … 3







美也子とは四歳、年が違っていた。

体が弱かった母親が俺が十歳の時に死んでからは美也子が母親の代わりに全てのことを
こなしていた。
家事に、バクチにハマり、毎晩、負けては安酒を飲んで深夜に帰って来る父親とは名ばかりの
男の世話まで。

日雇いだった男が稼いだカネは殆んどがバクチや酒に消えた。
六畳一間のボロアパートで俺と美也子は二人だけで生きていた。
俺達に“親”は、いなかった。
食い物も着る物も満たされたことなんてなかった。

人が地獄だと言う生活はそれが日常で、その生活しか知らない俺には当たり前でしかなかった。
いつも飢えていた。
飢えてない時なんてなかった。
カネに食い物。
そして、全てに。

ただ存在するだけの足手纏いなだけの男に俺達はとっくに期待することを諦めていた。
中学を卒業すると美也子はスナックで働き始めた。


『真(しん)ちゃんはちゃんと高校に行ってね』

『真ちゃんが偉い人になるのが私の夢なの』


その二つが美也子の口癖だった。
俺を学校に行かす為と生きる為に美也子は自分のことを全て後回しにして働いていた。
同年代の女達が彼氏だ、ブランド物だとはしゃぐ中、美也子はそんなモノとは無縁の世界を
生きていた。
文句も言わずに。
そして、そんな美也子の為にともすれば全てを壊したくなる衝動を抑え、俺は美也子の期待に
答える為に必死だった。
だが、俺と美也子の二人の世界は俺が十七の時に壊れた。
器量の良さを買われ、二十歳で移ったクラブで美也子は組長、梁川に出会った。
何もかもを犠牲にして生きる為だけに生きてきた美也子にとって、梁川は初恋だったんだろう。
その頃、二十九の若さで、小さいとはいえ、梁川はすでに自分の組を持っていた。
この世界じゃそれは異例の出世だ。
しかし、のし上がる為には、どんな汚い仕事でもやる梁川が、その頃、『ハイエナ』と陰で
噂されていたことを俺はこの世界に入って知った。

カネがある故の羽振りの良さに余裕。
そして、女扱いの巧さ。
梁川は天性のジゴロだった。

そんな梁川が、クラブホステスとは言っても一番下の位置にいる美也子だけのモノにはなるとは
到底、思えなかったが、俺は必死だった。
美也子の想いを叶えてやりたいと思った。

梁川の事務所を一人で尋ねて行ったのは冬だった。
怖い位に月が冷たく輝いている夜だった。

梁川に会えるまでは、死んでも事務所の前から動かないと言い張る俺を若い連中が小馬鹿にしたり、
凄んだりする中、一番年長らしい男が梁川に話を通してくれた。

「坊主、組長が会ってくれるぞ。だから、そんなとこにいつまでも座り込んでないで中に
 入れ」

年長の男の言葉に立ち上がった俺を男はそのまま事務所の二階まで案内してくれた。
男が開いた扉の向こうには、簡単な応接セットと書斎机セットがあり、書斎机のイスに梁川は
長い足を組み、座っていた。
梁川の左右には梁川の側近だろう男達が一人ずつ立っていた。

「美也の弟が俺になんの用だ?」

梁川の顔をちゃんと見たのはその時が初めてだった。
くっきりした彫りの深い顔立ちに空気を切るような鋭利な雰囲気を纏う梁川は鷹のようだった。

「あんたと二人だけで話しがしたい」

梁川だけを真っ直ぐ見て言った俺に事務所内には一瞬で緊迫した空気が流れた。

「ガキがふざけてんのか?」

梁川の右隣りに立つ男が笑み混じりの声で俺に言う。
そんな男の横で梁川も目だけで笑っていた。

「あんたと二人だけで話しがしたい」

でも、俺は梁川の目だけを見て、もう一度、同じことを言った。

「組長、このガキ、どっかに埋めますか?」

それもこの世界に入って知ったことだが、当時の梁川の組は、荒いことで有名だったらしい。

梁川の目から笑みが消え、一瞬の沈黙が流れる。

「お前ら、しばらく出てろ」

「組長?」

「出てろ」

「…はい」

少しの沈黙の後の梁川の命令に渋々といった感じで側近と事務所内にいた男達が出て行く。
男達が出て行くと広い殺風景な事務所の中は俺と梁川の二人だけになった。

「で、俺になんの用だ」

静かな事務所内に静かだが低くてよく通る梁川の声が響く。
梁川の質問に俺は梁川の前に一歩出ると膝を折り、その場に土下座をした。

「美也、いや、姉を貰って下さい」

馬鹿げた願いなことは分かっていた。
しかし、十七歳のガキだった俺には、そんな言葉とやり方しか思い浮かばなかった。
今の俺が同じことをされたら笑うかもしれないことをしかし、梁川は笑わなかった。

「俺はろくに学校に行ってねぇ。だから、社会の仕組みがどうだとか難しいことは
 分からねぇ。だけど、世の中、何かをしてやったら何か見返りがあるもんだろう?
 かりに俺が美也と結婚して、お前の望みを叶えてやるとしたら、お前は俺に何を
 返してくれるんだ?」


試されてる。

梁川の質問に直感で、そう思った。

そして、何も持っていない俺が梁川にやれるモノは一つしかなかった。
どうせ今までもったのが不思議な位だ。
だから、何の執着もない。
美也の想いが叶うなら。
美也の想いと引き換えなら、それは上等だ。
俺はゆっくりと頭を上げてから立ち上がり、梁川の目を見た。

“さぁ、答えろ”

梁川の目は、そう言っていた。
耳が痛くなるくらいに事務所は静かだった。

「…俺がこれから先、ずっと、あんたの盾になります」

拳を握り締める必要さえ、なかった。

梁川の盾になって梁川の代わりに死ぬ。
それが、側近の者に与えられる仕事だということも、梁川の組の人間全員がそんな想いだということも、
自分の為なら命を捨ててもいいと思ってる人間がいるからこそ梁川が一つの組織の頂点にいるという
この世界の常識も十七歳のガキの俺はその時、何も知らなかった。






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