… navy blue 10 …






『真ちゃんは放っておくとちゃんと食べないんだから』


そう言って、美也は週に3日は食事を作りに俺のマンションに来た。
あの頃は気付いてやれなかったが、広いマンションで梁川の帰りをただ待っている生活は辛かったんだろう。
美也が贅沢に慣れた、もしくは梁川の財力に惹かれた女だったら問題はなかったんだろう。
だけど、美也はどちらでもなかった。
何もない生活に慣れ過ぎた美也にとって梁川が与える贅沢は喜びより戸惑いの方が強かったに違いない。
そして、美也が欲しがっていたのは贅沢ではなく梁川の“愛”だった。

美也が死んだ後、美也の気配が残るマンションに住み続けることは出来なかった。
だから、美也の気配の残る物は全て捨て、このマンションに移った。
だけど、一番、美也の気配の残るこのピアノだけはどうしても捨てられなかった。



「大切な人のモノなんだね」

ピアノの鍵盤の上で美也の指がぎこちなく動く様を思い出していた俺に琉伊は静かにそう言った。

「…いや…モノだった」

自嘲気味に答えた俺の頬に琉伊の温かい手が触れる。
そして、その手は俺の頬を撫でた。

まるで、大切な、触れたら消えるモノに触れるような触れ方に同情はなかった。
憐れみもなかった。

何故、一度会っただけのガキにこんなことを許しているのか。
そう思うのに。
琉伊の手から逃げる気にはなれなかった。

何度も何度も俺の頬を撫でる琉伊の手を気が付いた時には握り締めていた。

「桜井さん…?」

そして、俺は琉伊の細い身体を引き寄せ、琉伊の唇を塞いだ。

自分でもどうしてこんなことをしてるのか分からなかった。
だが、抑えられなかった。
さっきまで送ると言っていたのに、まるで最初からそのつもりだったような俺の行動にそれでも琉伊は
抵抗しなかった。
ただ、徐々に深くなっていくキスに俺のワイシャツを握り締め、応えていた。












本能は本能でしかなかった。
今まで。
絡み付く女達の腕に本能のまま欲望を果たす。
その本能の行為は所詮、本能のみでそこに感情なんてモノは一度もなかった。

なのに。

頬に触れた琉伊の手に突き動かされたのは感情だった。











「あ…っ…っ…ん…っ」

お互い明らかに初めての時とは違っていた。
ダブルベッドの上で俺に貫かれている琉伊は二度目の絶頂が近いのかシーツを握り締め、惑乱したように泣いている。

「い…やっ…や…っ」

時々、開く瞳は涙で濡れていて俺を見ているのかさえ分からない。
そして、イヤだという言葉がただの音でしかないことは琉伊の体の反応をみればすぐに分かることだった。

「も…ゆるし…て…っ…」

泣きながら許しを請う琉伊のシーツを握り締めている手を自分の首に導く。
そして、琉伊の腰を掴むと俺は琉伊に深く突き入れた。

「あぁー…っっ」

薄闇の中に琉伊の今わの際のような声が尾を引き、消えていく。
その声に導かれるように俺は琉伊の後を追って果て、琉伊の上に倒れこんだ。















ベッドの端に座り煙草を吸う俺の背後から琉伊が体を動かす気配がする。
静かな寝室内を乱す微かなシーツの音の後、琉伊は俺に背を向けたまま口を開いた。

「…寝に帰るだけの家なら俺、ここに住んじゃダメかな…?」

それは専属契約の答えだった。

「好きにすればいい」

吸い終わった煙草を灰皿に押し付け消し、シャワーを浴びる為に立ち上がる。

「シャワーはどうする?」

さっきの専属契約の答えの声が頼りなかったからかもしれない。

「…えっと…あの、今はまだ動けそうにないから…」

俺に振り向きながらも琉伊は視線を合わせない。
二人で果てた後、息を乱したまま、琉伊は抱かれて自分を見失うほど感じたのは今日が初めてだと俺に言った。
それが本当かどうかは俺には分からない。
でも、それが嘘だとしてもどうでもいいことだった。

「お前が動くことはない」

俺の言葉にセックスの後、初めて俺と目を合わせた琉伊は不思議そうな顔をして俺を見上げた。
そんな琉伊の背中と膝裏に腕を差し入れ、体を抱き上げる。

「さ、桜井さん…?」

俺の突然の行動に琉伊は不安そうに俺の名前を呼ぶ。

「安心しろ、シャワーに行くだけだ」

「でも…」

「今日だけだ」

優しさといった感情ではなかった。
同情でもなかった。
強いて言うなら借りを返したかったのかもしれない。
今夜の借りを。









二人で入ったバスルームで足元のおぼつかない琉伊を片腕で支えながら俺は自分と琉伊にシャワーをかけた。
密着したお互いの体の部分以外をシャワーの湯が流れていく。
何もかもを洗い流すシャワーは熱帯雨林のスコールのように俺達二人の上に降り注ぎ、バスルーム内の
湿度を上げていく。
その湿度の高い空気を肺に吸い込みながら、琉伊の背中を撫でた俺は琉伊の背中の小ささに心の中で
微かに舌打ちをした。

簡単に握り潰せる程の小ささだ。
小さくて、頼りなくて。

その背中の無力さに俺は苛立った。
無力な人間はつけ入れられる。
つけ入れられ、利用され、傷付けられる。

この小さな背中に何人の男が金を払い、己の欲望を吐き出したのか。
そして、琉伊ははした金の為に何度、その男達に体を開いてきたのか。

自分もその内の一人なのにその事実に俺は無性に苛立ちを覚えた。






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