… 光の欠片 …










眼下に広がる街のイルミネーションに夜空を飛んでいるような錯覚に陥る。

ふわふわとした浮遊感はきっと、さっき飲んだワインと僕を抱き締めてる男とのキスの
せいだ。

出会ったのは2時間前。
名前は知らない。

男について知ってるのは僕が腕を回してる広い背中と僕の頬を撫でた整えられた指と
僕を抱く力強い腕と僕を口説く掠れた低くて甘い声だけ。

それだけ。
たった、それだけ。

なのに、男とのキスは切なくて、苦しくて、懐かしい。

たった2時間前に出会った名前も知らない男とのキスに僕の世界にハレーションが起こる。
初めての深いキスに光の粒が弾けていく。

街のイルミネーションと男の微かに匂うコロン。
眼下には街の光、頭上には星の瞬きと月の輝き。
そして、ベッドサイドには亜麻色の灯り。

男の唇と指が僕の身体の上を這い、僕は男の肩に爪を立て、生まれたての星のように
青白い炎をたぎらせる。

男に抱かれ、男に揺さぶられる僕の脳裏にはホテルの外の世界が広がる。

きっと、僕と男がこうやって愛し合ってる時にも街は眠らず、生きている。
人々の甘い囁きとヘッドライトの波。
誰かの争う声とサイレンの音。
小さな生命の産声と消えてゆく生命の叫び。

艶やかなイルミネーションの中に口を開ける暗闇に僕は怯え、男に縋り付く。

「…何がそんなに怖いんだ?何も怖くないだろう?」

怖いのは人の声だ。
ずっと、ずっと遠い昔の記憶の中の声。

「……声が…声が…怖い…」

うっすらと目を開け、陰になっている男の顔を見つめる。

怖いのは嫌だ。
暗闇も嫌だ。

欲しいのは、好きなのは僕を包む光と強い腕。


「じゃあ、耳を塞げばいい。君は何も聞かないし、聞けない。君は自分の
 声しか聞けない」

低い男の声が僕を導き、僕は耳を塞ぐ。
男の動きが速くなる。

「あっ…や…っ」

塞いだ耳からは初めての感覚に悦ぶ自分の声だけが聞こえる。

何も聞きたくない。
綺麗なイルミネーションの中で眩い光に包まれて、僕は溺れたい。


「はっ…ぁっ…んっ…」

もっと、もっと溺れたい。
弾けて、跳ねて。

「もっと…っ…もっと…っ」

「大丈夫だ、俺がいる…俺が君を守る」


全ては夢で、悪戯でも。
僕の中に男はいる。
男の動きに乱れる僕がいる。

目の前に突然、現れた光を掴みたくて、耳を塞いでいた両手を離し、手を伸ばす。
綺麗な綺麗な光の欠片に触れたと思ったとたん、僕は光りに包まれた。































意識が戻った時、僕の隣に男はいなかった。

でも。
腰を支配する甘くて鈍い重さと肌に残る紅い印は男と過ごした濃密な時間が夢や
幻想でなかったことを僕に教えていた。

肌は綺麗に拭われて、男と僕の汗すら残っていないけど。
男を受け入れた場所には男の形がまだ、ぼんやりと残っている。
そう、微かな男の汗の匂いとコロンの香りと男の体温と一緒に。
まだ、ぼんやりと。

ベッドから身体を起こし、何気なくサイドテーブルに視線を落とす。
そこにはしなやかなのに力強い筆跡の文字が連なった一枚のメモ用紙が残っていた。


『部屋は明後日まで借りてある。ゆっくり過ごせばいい。君をずっと守る』


たったそれだけの、それだけの手紙。
それだけの手紙に僕は男に守られてると実感する。

守られてる。

男に包まれ、守られてる。
それは、僕が初めて出会った光だった。































祖父の誕生祝賀会という名目のパーティ会場に男はいた。
煌びやかシャンデリアの灯りと人々の密やかな話し声。
虚飾に彩られた噂話と嘘。

羨望の視線。
嫉妬の視線。
誘惑の視線。

そして、憎悪の視線。

そんな人間の本能と思惑が絡み合う視線の中で、男の視線だけが優しかった。
優しく僕を見つめてくれていた。

人々の香りと声に酔い、軽い眩暈を覚える。


『大丈夫か?』


賑やかな会場に息が苦しくなり、人々に気付かれないようにそっと会場から抜け出した僕に
男はそう囁いた。


『静かな場所に行こう。さぁ』


腰に回された手に不安は感じなかった。
男に支えられ、エレベーターに乗り込む。
上昇していく感覚に違和感を感じ、少し眉を寄せた僕のネクタイを男が緩める。


『すぐに楽になる。ほら』


シャツのボタンも外れ、空気が肺に入り込む。


『俺が側にいる。君は何も心配しなくていい』


耳許で囁かれる言葉と上昇する感覚に身体から力が抜けていく。
男の低くて甘い声が僕の身体に沈み込んでいく。
少し霞む意識の中で僕は男の顔を見つめる。


『…あなたは…?』


誰…?


『俺は君を守りにきた』


『…僕を…?』


『あぁ、ずっと。君を守る』


男の頬に滑らせた僕の指を男が掴み、指先にキスをする。


『俺だけが君を守れる。だから、俺を信じてくれ』


男の真剣な眼差しと真摯な声音に僕は頷いていた。





























“君をずっと守る”



名前も知らない男の嘘か本当かも分からないメッセージを指でなぞる。

どうやって?
僕の名前も知らないのに?

頭の中で呟き、微笑む。

でも、でも。

一晩だけでも僕はあなたの優しい瞳に見つめられ、あなたに守られたから。

高層階にあるホテルの部屋の窓に近付き、眼下に広がるイルミネーションを見下ろす。
もしかするとこのイルミネーションの喧騒の中に男はいるのかもしれない。
そう思うだけで、冷たい街の光にさえ温度を感じる。



“君をずっと守る”



そう、ずっと。

ずっと、あなたを感じてる。
二度と逢えないとしても。
あなたを忘れない。

そう、ずっと。

ずっと


夜の闇が深くなるごとに少しずつ街は静かになる。
眠りにつくことはないけれど。
人々の声もサイレンもあなたがくれた眩いばかりの光の中で今夜は忘れそうな気が
するから。


「…おやすみなさい」


あなたは今、どこにいるのか分からないけど。

あなたに。
あなただけに。

今夜はお休みの言葉を。

右手に持った携帯で急に僕がいなくなったことで心配しているだろう兄にメールを打つ。
すぐに返ってきたメールに僕は心配性な兄を思い出して苦笑するとまだ、微かな男の
温もりの残るベッドで眠る為にシーツの中に身体を沈めた。






■おわり■




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