… emergency call … 10






ゆっくりと目を閉じて心を落ち着かせることに意識を集中した。
聴き慣れた曲は耳に入るだけで心までは届いてこなかなった。

時間にしたら多分、二十分ほどそうしていたと思う。

車の助手席のドアが開いたのは突然だった。
驚いて体を横に向けた俺の視線を無視すると千裕は無言で助手席のシートに座った。

千裕よりも十一年も長く生きているのにすぐには言葉が出てこなくて。

フロントガラスの向こうを真っ直ぐに見つめたままの千裕の横顔を見つめた俺は千裕の
目元が腫れていることに気付いた。

それは明らかに泣いたが為の腫れだった。


「……千裕…」

まるで何かに必死になって耐えてるような千裕の様子に俺の心はズタズタになった。

きっと泣いてしまいそうになるのを我慢してるんだろう。
そんな千裕の健気さが愛しくて辛くて俺は千裕の頬に手をのばそうとした。
その時だった。

「……洋平はずるいよ…」

真っ直ぐ前を見つめたまま千裕は震える声で話し出した。

「…俺がスティングが好きなのもタランティーノが好きなのも洋平が好きだったから
 なのに。俺が好きなものは洋平が好きものばかりなのに」

堪え切れなくなったのか千裕はボロボロと涙を溢した。

「俺の中は全部…っ…洋平なのにっ…洋平しかいないのに…っ…」

泣いてるせいで時々声を詰まらせながら千裕はそう言った。

「…悪かった、千裕。悪かった」

しゃくり上げている千裕の頬に流れた涙を俺は自分の手で拭った。
その俺の行為に千裕はようやく俺の顔を見た。

俺を見上げた大きな黒い瞳は涙で濡れて街灯の光を反射して綺麗に瞬いていた。
こんな時に不謹慎だとは思ったが俺は千裕を綺麗だと思った。

俺の知らない間にいつしか天使は魅力的な悪魔に成長していてその悪魔の持つ妖艶さで
俺を魅了していた。

もう何もかも渡そう。
心も魂も全て。

千裕に。

俺を全て。


「お前が空港に行きたいって言うなら空港に行こう。エジプトに行きたいなら
 エジプトでもいい。宇宙に行きたいなら宇宙でも。お前の行きたい所には俺が
 必ず連れてってやるから。だから…」


お前の望みは俺が全部叶えてやるから。

だから。

千裕。


綺麗な瞳は俺を真っ直ぐ見つめていた。


「だから、俺を捨てないでくれ…」

お前が俺で溢れているように俺もお前で溢れててお前に捨てられたら俺は生きる意味を
見い出せないんだ。

「……もう、俺以外の人と会ったりしない?」

「あぁ、会ったりしない」

「本当?」

「約束する」

「本当に?」

「あぁ」

何処までも疑い深い千裕に俺は苦笑を洩らした。
しかし、千裕をここまで疑り深くした原因は俺以外の誰のせいでもなかった。

「お前に信じて貰えるようになるまで一生かけて頑張るよ」

苦笑しながら囁き、千裕の目尻にキスをする。
目尻へのキスに千裕は首を少し竦めた。

「ファーストキスだったんだろ?」

「…なんで…?」

俺の言葉に千裕は瞳を大きく見開いた。

「ファーストキスがあんなのでごめんな」

もっと優しくて幸せなものにしてやりたかった。
そう思って言った俺に千裕は頬を桜色に染めると首を横に振った。

「…ううん…ずっと、洋平がいいって思ってたから」

久し振りに見る素直な千裕は最高に可愛くて素直に告げられた言葉は俺を一撃で打ちのめした。

「…やり直そう」

「え?」

「ファーストキス。やり直そう」

俺の提案に千裕は益々顔を赤くすると微かに頷いた。
千裕の意思を確認してから千裕の顎を指で掬い顔を上向かせる。

キスなんて初めてじゃないのに。
千裕と同じように微かに震えている自分がおかしかった。

でも、良く考えてみれば千裕とちゃんとするキスはこれが初めてなんだから俺にとっても
今からするキスがファーストキスと言えなくもない。
なんて。
そんな言い訳じみたことを考えている自分を自分で笑いながら俺は少し震えながらも素直に
瞳を閉じている千裕に触れるだけのキスをした。













































気付いた瞬間から想いはとめどなく溢れて、自分でもコントロールが効かなくなってゆく。

千裕に拾って貰ったあの夜から合コンには一切行かなくなった。
そんな時間があるなら千裕と一緒にいる時間を作りたいと思う。
私生活を百八十度変えた俺に関口は

『まるで若いピチピチの新妻を貰ったオヤジの域だな』

と言って笑った。
そして俺はその関口の言葉に苦笑を返すしかなかった。

実際、千裕は瑞々しくてしなやかで子供だと思っていた俺の目が節穴だということに俺が
一番驚いている。

子供と大人の境目という言葉が一番ぴったりくるのかもしれない。
子供だと思って安心しているとふとした時に大人びた視線や仕草をする。

細くしなやかに伸びた手足も未成熟だからこその色香を放って俺を捕える。
一歳の時から知っている千裕に自分がここまで欲情する日が来るとは思わなかった。
男の性というものなんだろう。

一旦、意識し始めると想像はどんどん膨らんで、この歳になって情けないことに俺の夜の
オカズは千裕になった。

しかし、それくらいは許して貰わないと困る。
なんせ、まだ未成年の恋人のことを考えて今はまだキス止まりで我慢してるんだから。

それにファーストキスの失敗もあって初めての時は最高の場所で最高の思い出になるように
してやりたいと密かに思ってたりする俺は今日も千裕の予備校が終わるのを車の中で待って
いる。

相変わらず週末の街の夜は賑やかで行き交う恋人達は幸せそうに歩いている。
そんな恋人達の様子を俺は眺めながらしかし世界で一番幸せなのは俺だと俺は心の中で
独り得意気になる。

何故なら俺は天使を手に入れたのだから。

そう。
俺だけの天使を。

ふと頭に浮かんだ気障なセリフに笑いながらタバコに火を点ける。
タバコを口に銜え、顔を上げた俺の目に映ったのは俺の車を見つけ天使のような笑顔を浮かべ
ながら俺に向かって歩いてくる俺だけの天使の姿だった。






■おわり■